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「怒る」ということ

noteを書き始めて1週間。
自分から出る言葉を眺めてみると、自分はずっと何かに怒ってるんだなと思った。

母親に
父親に
小学校の環境に
中学生の自分に
高校の友達に
専門学校の先生に
看護師の仕事に
医療のシステムに
あの時言われた言葉に
あの時された態度に
正しくお金を遣えなかった自分に
全力を出しきれなかった自分に
誠実でいられなかった自分に

ずっとずっと怒ってる。沸々と。

「これが書きたい」と思って文章を書き始めるのだけれど、書く言葉の中に沸々とした怒りを感じて、辞めてしまう。何かにブチギレている自分が恥ずかしい。

私は、ニコニコして穏やかな優しい人を取り繕うのが得意だ。反射的にそうしてしまう。私はあなたの敵ではないです、攻撃しないでね。と思っている。そして、いつも穏やかでハッピーな人に見られたい。

でも、怒りの感情は湧き上がってくる。

怒りの対象について文章を書こうとすると、冷静な自分が出てきて「でもそれは仕方ないんじゃない?」「それって他責思考でしょ?」「かっこ悪いね」と囁く。うるさい黙れ。

本当は、ぜーーーんぶ、私のせいじゃない!と言いたい。私は絶対に悪くない。ぜーーんぶ、親が、環境が、あいつが悪い、と思いたい。
他責思考で何が悪い。本当は、あなたのせいじゃないよ、と言ってほしい。でも、思考がそれを許さない。

怒ることは、誰かを攻撃して変えようとすることだと思っていた。この思い込みがずっと苦しかったのだ。私のせいでもないけど、あなたのせいでもない。

私は、誰かを攻撃して変えたいわけじゃない。 ただ、怒らせてほしい。
これを書いていて、怒ることは対象を否定することではないと気付いた。

自分の中から湧き上がる「不当に扱われて悲しかった」「本当は傷ついた」という声を、無視せずに認める行為だった。

怒りのその奥には「悲しかった」「傷ついた」自分がいる。その子を「恥ずかしい」「間違ってる」と隠すのではなく「そう感じたんだね」と目線を合わせて聞いてあげる。一緒に「クソやな!」とブチギレる。

それが自分に対しての誠実さであり、自分が苦しまずに生きる方法なのだと思う。

イライラを感じる時、こめかみがぎゅっとして、舌の奥がザワザワして、お腹の底が何かが沸々せり上がってくる。

この湧き上がる感覚を「ダメなもの」「不快なもの」として消そうとするのではなく、受け入れて感じる。

以前の私は、怒りが湧くたびに「また人のせいにしようとして!」「この感情は間違ってる!」「自分のせいだろ!」と自分をボコボコにしていた。

怒りを感じると自動的にこの思考になり、自分を責める自傷行為が辞められなかった。苦しかった。感じてもらえなかった身体の怒りは消えずに沸々と溜まっていき、文章から滲み出していた。

自分から湧き出るものをコントロールしようとすると、自分のことも他人のことも許せなくなり、自分のことを「間違っている」「恥ずかしい」と思う気持ちがどんどん強くなる。

だから身体感覚を見る瞑想が私には必要なのだ。

身体を見るようになると思考の暴走が止まる。そして、怒りの身体感覚を否定せずに一緒にいられるようになる。

湧き上がってきたものを否定せずにいることは、他責でもない、自分を責めることでもない。

「あなたはどう感じたの?」「どう思っているの?」と目線を合わせて聞いてあげる。

身体感覚が養われると、自動思考にも気付くようになる。今自分を責めているな、と気がついた時に、身体に意識を戻す。「今ここ」に戻ってくる。

そうして、反応の癖をゆるめていく。

私は、全然穏やかじゃない。優しくもない。短気で気分にムラがある。
見るもの全てが美しい、と思う日もあれば、目に入るもの全てがムカつく、と思う日もある。

自分の文章は重たいな、と思う。軽やかで優しい文章が書けるようになりたいな、と思う。

「と思う」を否定しない。それで良い、と思う。

私がそう思うなら、そうなのでしょう、
あなたがそう思うのなら、そうなのでしょう。

文章を書いてまた自分の癖に気付けた。よかった。

こうやって、自分を許して、相手を許して、優しく生きていけたらいいなあ。

では今日はこのへんで。

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