重すぎてなかなか書けなかったことを書いてみよう。何度も書こうとして、手が止まって進まなかったけど、今日は書けるかもしれない。
突然ですが、私は10年間看護師として働いていました。いろんな場所で働きました。すごく尊い仕事だと思うし、そんな仕事ができて良かった、と今は思います。
でも、看護師として働いているとき、「これは、誰が幸せになっているのだろう」と憤りを感じることが時々ありました。
肉体が終わりを迎えようとしている方にする採血、点滴。
口から水分を摂れないので脱水にならないよう点滴をしますが、尿として排出する機能が落ちているのでどんどん浮腫んでいきます。血管が見えなくなり、何度も何度も針を刺さないといけません。どんどん内出血の跡が増えていきます。
寝たきりになり、認知症になり、管から胃に直接栄養を入れている方。管が気持ち悪くて触ってしまうので手にミトンをはめられ、痰は自分で出せず2時間おきに苦しい吸引をしないといけません。痰が詰まって呼吸が止まってしまうからです。
こういった最期は、全く珍しい話ではありません。
終わりに向かってゆく肉体が、様々な医療行為で「延命」されている様子を見た時に「誰が幸せなんだろう」「この状況は誰も望んでいないのではないか」と思いました。
患者さんも、ご家族も、医師も、看護師も、それぞれのベストを選択しているはずなのに。生きるってなんなんだ、と思いました。
生きていれば、いつか必ず肉体の終わりがきます。
どんな手段を使ってでも、なるべく長く心臓を動かし続けることが、絶対に幸せなのでしょうか。
肉体の終わりがどんな状態になるか知っているご家族ほど最期を迎えられるとき「何もしないでください」とおっしゃる方が多いです。
私も家族の最期には、点滴もマーゲンチューブも、もちろん挿管・心臓マッサージも、何もしないでください、と言います。私もされたくないです。(肉体が老いた時)
私の理想の寿命の迎え方は、だんだん食欲がなくなって、断食のようにカラカラになって眠るように、です。食べられなくなったらその時だ、と思うのです。ちゃんと身体はわかっているはずです。
これは、延命を選択した方が間違ってるとか、可哀想だと言いたいわけではありません。幸せの基準は他人が決めることではないですし、選択すること自体が悪いとは全く思わないです。
でも、延命の選択をしたあと、どうなるかわからないまま、ご家族は選択を迫られます。
胃ろうを作るとどうなるのか、マーゲンチューブを入れるとどうなるのか、点滴を続けてどうなるのか、わからない。
「これをしないと死にます」「こうすると助かります」と説明を受ければ、大切な家族なら「お願いします」となるはずです。
医師は患者さんの状態を良くしようとして、ご家族も大切な人を助けたい。
でも、この選択に、患者さん本人の意思がない。
ここに歪みを感じます。でも、誰も悪くない。
私は「延命をしない」という選択が、冷たい・愛のない選択だとは思いません。「延命をしない」という選択も愛です。
肉体があるということは、痛みが伴います。肉体がなくなる恐怖・不安もあります。もちろん、同時に肉体があるから感じられる喜び、温かさ、癒しもあります。
でも、肉体はいつか必ず終わりがきます。肉体にずっと命を宿し続けることはできないのです。
だから、どの治療を選ぶとどんな未来があるのか、わかって選べたらいいよね、と思います。肉体が終わりを迎えるのは、自然なこと。
私が身体感覚を見る瞑想を伝えたいと思うのは、いろんな人に自分の身体に興味を持ってもらいたいから、でもあります。
「今の自分の身体にどれだけ気付いているか」というのは、「最期の瞬間にどうありたいか決める」ことに繋がっていると思うのです。
それぞれが自分の身体に興味を持って、自分で意思決定ができたら良いな、と思います。最期のときでなくても、普段の生活でもそうです。
具合が悪くなったら、まずは病院に行って、お医者さんに見てもらって、もらった薬を飲む。自分の身体のことなのに、自分の命に関わることなのに、他人任せにしすぎではないか、と思うのです。
薬を飲むか決めるのも、どんな治療を受けるか決めるのも、自分です。知らなければ、選ぶことができません。選べなければ、誰かに委ねるしかなくなってしまいます。
でも、普通に生活している人が自分の身体のことを知る機会がなさすぎますよね。私は看護師だったから少しわかるだけで、普通に生活していたら自分の身体にどんな臓器があって、どんなふうに働いてくれているのかなんて知らなかったと思います。興味もなかったかもしれない。
だから、自分の身体に興味を持つ機会が増えたらいいな、と思います。人間の身体ってびっくりするぐらいすごいことを、何も命令しなくてもやってくれているんですよ、と伝えたい。
身体は、いつも完璧に私たちのことを思って働いてくれていて、どれだけ酷く扱っても、回復しようと、命を繋ごうとしてくれている。
すっごい心強い味方が一緒に生きていてくれてる、と思うといつも少し安心するのです。身体で動いてくれているそれぞれの臓器のことを考えると、ジワ〜っと感謝の気持ちが出てくる。
身体感覚を見るのは、安心して生きるための第一歩。自分の内側にとんでもないすごいシステムがあることをいろんな人に知ってほしい。その入り口が瞑想なだけ。
自分の身体に興味を持つ人が増えれば、あの「誰が幸せなんだろう」という状況も救われる気がするんですよね。
「人に言われたから」とか「わからないから人に決めてもらう」とかじゃなくて、ちゃんと自分たちで納得した最期を選べるようになる。そしたら、看護師をして憤ることも少なくなるんじゃないかなあ、とか思ったり。
決めるのは苦しいことも多いから、決めてほしい人は誰かに決めて貰えば良いと思います。どっちを選んでも良いんです。
でも、どんな選択肢があるか知って「自分で選ばない」と決めるのと、選択肢がないままレールに乗っているのとでは、人生の満足度が違う気がしています。
だから「こんな選択肢もあるんだよ」と言い続ける人でありたい。肩書きは変わっても、やりたいことは同じなのかもしれないですね。自分で選べるよ、って伝えたい。看護師さんが楽しく働けるようにしたい。
身体の感覚を見ることで、自分が何を思って、どう感じているのか、わかりやすくなります。ずっと続くものはない、ということが身体でわかります。
「あ〜この世界は大安心だった!」と思ってスヤ〜っと死ねるように、身体感覚を見る練習、続けていきたいです。そして、自分の人生に納得して、穏やかに命を全うされる方が増えますように、と願います。
う〜ん…やっぱり長く重くなってしまった。
最後まで読んでくださってありがとうございます。
また書きますね。では。

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