私の感覚では「人の目を気にする」って、いろんなパターンがあると思っていて。うまく言語化できるかわからないけれど、書いてみようと思う。
人の目を気にするのは社会的に必要なスキルで、全然悪いことじゃないと思う。じゃあ、なんでみんな人の目を気にして苦しくなるのか。
相手の評価をコントロールしようとするから苦しくなるのだと思う。
「こう思われたい」
「こう思われたくない」
「こういう人に見られたい」
「こういう人に見られたくない」
これを行動の軸にしてしまうと、どんどん本来の自分から遠ざかって、どうやって生きていけば良いかわからなくなる。
相手の評価はコロコロ変わるし、正確に計測もできないし、コントロールもできない。だから苦しい。
例えば、私は「仕事ができて自由でハッピーで穏やかな人」に見られたかった。
自分がそうありたいのと、
人の目から見た自分がそうありたいのと
意識が全く違う。
自分がそうありたい、と思うだけなら、現実を見ても別に苦しくないし恥ずかしくないし焦らない。ただそうあれるように日々の生活を積み上げるだけ。
人の目から見た自分がそうありたい、と思うと、途端に現実を受け入れられなくなる。だからお金を稼いでいない自分が恥ずかしかったし、仕事ができない自分を責めまくったし、変わらない毎日に焦っていた。苦しかった。
人から「こう思われたい」と強烈に思うことは、自分が自分自身に強烈に「そうじゃない」と思っていること。
私の場合は「お金あって」「ハッピーな人」と思われたかった。でも私は自分自身を「お金がなく」「陰気な人」と思っていた。これがバレるのが怖かった。恥ずかしかった。
別に、生活できるお金もあるし、それなりに人とコミュニケーションは取れるのに。過剰に気にしていた。
じゃあ、なぜこれがバレるのが怖いか。私はこれがバレると自分の魅力がなくなって、誰からも大切にされなくなる、ひとりぼっちになってしまうと思っていた。
バレると「危険に晒される」と思っていたから怖かった。お金があってハッピーな人と思われた方が「安全だ」と思っていた。自分なりの生存戦略だった。
身体がガチガチだと「危険だ」という思考は加速する。どんどん身動きがとれなくなる。これも1つの反応の癖。
私が「こう思われたい」という反応の癖を緩められたのは、身体の癖を緩められたから。ガチガチの身体の緩め方を知れたから。
身体が「安全だ」と認識すると、世界の見え方が変わる。こう思われなくても大丈夫かも…?と思える。握りしめていた虚像を手放せる。そしたら楽になる。息がしやすくなる。自分の内側から声が聞こえるようになる。
お金を稼ぐ能力はないし、仕事はできないし、貯金もない。ウジウジ考え過ぎるし、頭の回転も速くないのに、自分のことは大好き、自分のことばっかり考えてる。
書いててぐぬぬぬぬ、ってなる。まだ恥ずかしいけど、言えるようになった。前は、ぜっっっっったい言いたくなかった、言えなかった。
言えるようになると、どう見られても良くなる。言えるようになると「世界は安全だ」と認識できるようになる。そしたら、よくわからない自信が湧いてくる。だからこうやって脱力して毎日noteが書ける。
とはいえ、ネットにはこうやって好きに書けるけど、実際に会う人に見られてた恥ずかしいな、とも思う。主人の義父母とか、親戚とか?クライアントワーク関係の人とか?見られたら恥ずかしいなあ…。
目が気になる人々は、自分の「安全」に大きく関わる人たちなのだと思う。迂闊に対応したら自分の快適で安心な生活を脅かされると思うから、見え方が気になる。
まあ、どう思われても、どうにでもなるんですけどね。頭ではわかるけどね。
人目が気になる場所が家庭内も、職場も、どこもかしこも、となると苦しくなるんでしょうね。適度な緊張感があるのはそんなに不快じゃない。
自分の身体に安全だよ、って言ってあげられたら一番いいですよね。自分自身で安全を作ってあげる。
人からどう思われても安全なのだ、と体感する。
うんうん。私が作りたいのは、提供したいのはこういうことだな。
最近、「人の目を気にする」というワードをいろんな場所でよく見かけたから言葉にしてみた。もうちょっと深堀りしがいがありそうなテーマですね。
今日はここまで。最後まで読んでくださりありがとうございました。
明日も良い1日にしましょうね〜おやすみなさい!

コメント